新世界・通天閣

「他の大都市も例外ではないかも知れない。しかし、今は大阪を見ているので」云々と書いたのだったが、しかし最も正直に言えば、「大阪という都市はやはり『特に』という形容を付けて言及してよい場所の一つなのだろう」と思っている。
特に何なのかと言えば、特に「外国の影響を受け入れて来た」場所なのだろうと。そして、私が今何となく思うのは次の二つである。
「新世界」
大阪の繁華街「新世界」、この “名称” である。
どのような表面的な理由でこの名称ができたのであれ、それは「日本的でない」と思うのである。日本人は元来自然に対して調和的な民族だと思うが、「新世界」という言葉は「人為による創造・操作」を連想させる。今の言葉で言えば「開発」だろうか。それは基本的に自然に対して「征服的」である西洋人のメンタリティを連想させる。
信仰の観点から言うなら、世界は少しも「新しくされる」必要がない。少なくとも「新世界」と銘打たれるような形で新しくされる必要がない。世界は創造主によって一回切り造られた。それで基本的なものは全て揃っている。人類はそれを応用し利用させて頂くことができるだけだ。それは根本的に「新」ではない。
だから、小説の題名であれ、歓楽街の名であれ、「新世界」という言葉(言葉は発想である)にあまり良いものを感じない。
ユートピア的なものであれ反ユートピア的なものであれ、どんなに曰く “知的” なものであれ、どんな種類のものであれ、とにかく人が「新世界」という言葉であれこれ空想する時、それは大抵「神なし」の精神でされることが多い。
「通天閣」
この “名称” である。
日本には「至誠天に通ず」という言い方があるが、果してそのようなニュアンスのものか?
「通天閣」とは、「天に通じる高い建物」という意味で、命名したのは明治初期の儒学者、藤沢南岳である。
しかし、本当に、そこには東洋人が一人居ただけか?
そこに外国(西洋)の影はなかったか?
(注:外国や西洋から来たものが全て悪いと言いたいのではない。)
何故なら、今や、それはあまりにこれ(↓)を連想させるから。
「さあ、町をつくり、その頂きが天にまでとどく塔をつくろう。全地のおもてに分れないように、われわれの名を高くあげよう!」
創世記 11:4
だってですね、人間にとって必要なのは——この私が言うのは気恥ずかしいが——「まことの心」を持ち、それが天に通ずることであって、別に「閣(建物)が天に届く」必要なんか少しもないからであります。だから「通天閣」は、それが「建物」である時点で、バベルの塔に通じるように思います。(今、気づいてみれば、です。私も今迄、通天閣についてこんな事は考えたこともなかった。)
Wikipedia の「新世界 (大阪)」の項を見れば、そこには「万博に近いもの(内国勧業博覧会)」「ニューヨーク」「凱旋門」「エッフェル塔」などといった語が並ぶ。外国の影が「あった」どころではなく、かなり「濃かった」のだろうと思う。
そして、エッフェル塔も凱旋門もフリーメイソンの作だろう。(万博も。)
「ルナパーク」などというのも、あまりにSFチックである。(言葉として。)
そして、
私も今迄あまり気にしていなかったが、
通天閣には変なものがある。
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