「田舎へ移ろう」の “のんちゃん” さんについて 1

極めて特殊な話題。一般向けに非ず。
先日、Maria Divine Mercy の預言は偽預言であることを書いた。参照
それについては終わった。
ここでは、Maria Divine Mercy の預言を含む複数の教会未認可の預言を広めているブログ「田舎へ移ろう」の筆者 “のんちゃん” さんその人について。
(これを書く私の心理動機の内訳は、四分の三は「のんちゃんさんへ」、残り四分の一が「人々へ」、というところです。)
偽預言を信じる人達の特徴
私はベイサイド支持を表明しているから、多くの人にとっては私も「偽預言を信じる人達」の中の一人だろうけれども。
偽預言を信じる人達について、ある神父様は、インターネット上には既に無いページにおいて、次のように書いておられます。
(彼らの)特徴の一つとして明らかなのは、筋道だった批判を聞く耳がないということです。
また、別の神父様は、かつてリトル・ペブル教団の杉浦氏に働きかけたことをお振り返りになり、次のように書いておられます。
私は、杉浦君に文書と電話の言葉とで、客観的に見てリトル・ペブルの異常な事実を指摘しました。杉浦君は「ヨハネ・パウロ二世は全てをご存じだ、もし疑問があればヨハネ・パウロ二世に聞けば良い、教皇様の側近は皆ウソをついている。しかし教皇様だけが真理を知っている」と主張し、客観的な事実の議論を受け入れようとしてくれませんでした、残念ながら。
つまり、偽預言を信じる人達の特徴は、「筋道立った批判」を提示されても、「客観的な事実の議論」を提示されても、それら一つ一つを自分の手で「取って、見る」ことなく、全てをスルーしてしまう、ということのようです。
そして、どのようにしてそうするかと云えば、「本来なら自分が保持していなければならない <判断主体> を自分以外の誰かに(あるいは何かに)すっかり譲り渡してしまう」という仕方でなのかも知れません。「杉浦君」が全てを「ヨハネ・パウロ二世」に託し、何を提示されても自分では何も考えようとしなかったように。
ところで、私は Maria Divine Mercy の預言について、それなりに「筋道立てて」、また当の “イエズス” の言葉を取り上げながら、つまり「事実に即して客観的に」書いたつもりでした。しかし、私もまた「スルーする人」に出会ったようです。のんちゃんさんです。
本日の雑感
私が紹介しているアイルランドの幻視者に対する批判を目にした。偽預言者であると。
聖書による真実か否かの判断は、その木がどんな実をつけるかによるとある。この幻視者が偽者であれば、その実は腐って落ちるだろうし、それを紹介している私のサイトも発展せず、いずれは廃止の憂き目にあうだろう。
これが判断材料となる。悪であれば長続きしないのだ。
さて上記幻視者であるが、2010年10月に突然ネットに現われ、現在、22ヶ国語で翻訳されている。その広まるスピードは速いです。だからと言って、これで真実のサイトであるとの証拠にはならないだろう。
この幻視者のサイトや私のブログが将来どんな実をつけるかで判断するのが最善の方法で、それまでは半分醒めた状態でお付き合い願えばいい。決して信じてくださいとは言っていない。
しかし、これだけは言える。豊かな実をつけてから、その実を食そうとも、その時には遅い場合もある。
彼はこの件に関しては自分の判断主体を「時(将来)」に譲り渡したようです。
上の絵は、人物を子供にしたりしてちょっと失礼気味だけれど、とにかく、私がのんちゃんさんから受けた印象を表わしたものです。
私はこれを別に憤慨して言うのではないけれど、彼は私が提示してみせたそれらの諸事項(Maria Divine Mercy の預言が確実に持っている諸要素)を自分の手で「取って、見る」こと一切なく、確認しようと思えば確認できる諸々の事柄を内蔵した「現在」という時から逃れて、その唯一現実的な時から逃れて、ただ <将来> に向かって歩み去って行くようです。
そして、そればかりではありません。のんちゃんさんはその文章において、そもそも聖句の解釈を間違っているようです。
のんちゃんさんの、聖句の気ままな読み方
もう一度引用させてもらいます。
本日の雑感
私が紹介しているアイルランドの幻視者に対する批判を目にした。偽預言者であると。
聖書による真実か否かの判断は、その木がどんな実をつけるかによるとある。この幻視者が偽者であれば、その実は腐って落ちるだろうし、それを紹介している私のサイトも発展せず、いずれは廃止の憂き目にあうだろう。
これが判断材料となる。悪であれば長続きしないのだ。
さて上記幻視者であるが、2010年10月に突然ネットに現われ、現在、22ヶ国語で翻訳されている。その広まるスピードは速いです。だからと言って、これで真実のサイトであるとの証拠にはならないだろう。
この幻視者のサイトや私のブログが将来どんな実をつけるかで判断するのが最善の方法で、それまでは半分醒めた状態でお付き合い願えばいい。決して信じてくださいとは言っていない。
しかし、これだけは言える。豊かな実をつけてから、その実を食そうとも、その時には遅い場合もある。
さて、これから、のんちゃんさんに対する呼びかけ調で書きますが——
のんちゃんさん、私はあなたのこの短い文章の中にも多くのことを感じせて頂いた気がします。以下、私としての感想を率直に書かせて頂きます。
あなたは上の文章でイエズス様の「木と実の喩え話」を引いておられます。
ですから先ず、その当の喩え話を聖書によって確認しておきます。
それは聖書の三箇所にあるようです。翻訳はバルバロ神父様です。
マタイ 7:15-27
偽預言者を警戒せよ。彼らは羊の衣をつけてくるが、内は欲深いおおかみである。実を見れば、彼らの正体がわかる。茨からぶどうを取り、あざみからいちじくを取る人はいない。すべてよい木はよい実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。よい木は悪い実をつけず、悪い木はよい実をつけられぬ。よい実をつけぬ木はみな切って火に投げ入れられる。人は実によってその人を知ることができる。
私に向かって、〈主よ、主よ〉と言う人がみな天の国に入るのではない、天にまします父のみ旨を果たした人が入る。その日多くの人が私に向かって〈主よ、主よ、私はあなたの名によって預言し、あなたの名によって悪魔を追い出し、あなたの名によって不思議を行ったではありませんか〉と言うだろう。そのとき私ははっきりと言おう、〈私はいまだかつてあなたたちを知ったことがない、悪を行う者よ、私を離れ去れ〉。
これらのことばを聞いてそれを実行する人は、岩の上に家を建てた賢い人にたとえてよい。雨が降り、流れができ、風が吹いて打ち当たるけれども、その家は倒れない、岩の上に土台をすえていたからである。また、私が言った話を聞きながら実行せぬ者は、砂の上に家を建てた愚かな人にたとえてよい。雨が降り、流れができ、風が吹いて打ち当たると、その家は倒れてひどく壊れた。
マタイ 12:33-37
実がよければその木もよいとされ、実が悪ければその木も悪いとされる。木はその実でわかる。まむし族の人間よ、悪者のあなたたちにどうしてよいことが言えよう。口は心に満ちたものを語る。よい人はよいものをよい倉から出し、悪い人は悪いものを悪い倉から出す。私は言う。人が話したむだごとは、すべてさばきの日にさばかれるであろう。人は自分のことばによって義とされ、また自分のことばによって罪とされる。
ルカ 6:43-49
良い木は悪い実をつけず、また悪い木は良い実をつけぬ。木はその実によってわかる。茨からいちじくは取れず、木苺からぶどうは取れぬ。良い人はその心の良い倉から良いものを出し、悪い人は悪い倉から悪いものを出す。口は心にあふれるものを言葉に出すからである。
私を〈主よ、主よ〉と呼びながら、なぜ私の言うことを行なおうとしないのか。
私のところに来て、私の言うことを聞いて行なう者は、どういう人かを教えよう。それは、土地を深く掘り、岩の上に礎を置いて家を建てる人のようである。洪水になって、奔流がその家を覆っても、しっかり建っているから揺るがない。だが、聞いて行なわぬ人は、土地の上に礎も置かずに家を建てた人のようである。奔流がその家を覆うとすぐ倒れてまったく破壊されてしまう。
さて、のんちゃんさん、私はあなたの文章から、あなたの主張の骨子を抜き出してみましょう。
聖書による真実か否かの判断は、その木がどんな実をつけるかによるとある。この幻視者が偽者であれば、その実は腐って落ちるだろうし、それを紹介している私のサイトも発展せず、いずれは廃止の憂き目にあうだろう。
これが判断材料となる。悪であれば長続きしないのだ。
(…)
この幻視者のサイトや私のブログが将来どんな実をつけるかで判断するのが最善の方法(である)。
不当な抜き出し方はしていないことを、原文でご確認下さい。
上の赤文字の部分と青文字の部分には
本当に <聖書的なつながり> があるだろうか?
のんちゃんさん、私があなたに質問してみたい事はこうです。
上の赤文字の部分と青文字の部分は本当に「関係」があるでしょうか?
つまり <聖書的なつながり> があるでしょうか?
文章の始めに聖句への言及があるために、それ以降があたかも聖句に沿った主張であるという観を呈していますが、それは正しいでしょうか?
私の目には、青文字の部分はただあなた自身の考えであるか、世俗の常識の世界でしばしば言われる事に過ぎず、イエズス様のなさった「木と実の喩え話」とは直接の関係はないと思われるのですが。
あなたのこの主張の根本にあるのは「悪であれば長続きしない」ということです。それを根本として次のように続きます。「だから、私達はその木が長続きするかどうかを見ればよいだけだ。それが『最善の判断法』だ」。
しかし、イエズス様は先ずそもそも、その喩え話で「悪であれば長続きしない」ということをおっしゃっていますか? もしおっしゃっていなければ、あなたの文章の全体はイエズス様の喩え話と <聖書的な結びつき> は持っていないということになると思いますが。
私は聖句を見直してみました。そして、少し気づいたことがあります。
それは、そこには「よい実をつけぬ木はみな切って火に投げ入れられる。人は実によってその人を知ることができる」(聖書箇所)という二つの文の連続があるから、人によってはこれを「よい実をつけぬ木はみな地上で倒れるから、その倒れたことを見て『その木は悪かったのだ』と知りなさい」とイエズス様が教えておられると思うのかも知れない、ということです。
しかし、のんちゃんさん、それはおそらく標準的な読み方ではないでしょう。標準的でないばかりでなく、おそらく “正しくない” 読み方でしょう。
イエズス様は「火」とおっしゃったのです。それは「地獄(ゲヘナ)の火」のことでしょう。つまり、「よい実をつけぬ木はみな切って火に投げ入れられる」というイエズス様の御言葉は、「よい実をつけぬ木はみな地上で倒れる」ということを意味しないでしょう。イエズス様のおっしゃったのは「超自然的な審判」のことでしょう。
イエズス様はその喩え話で「地上」のことをおっしゃっておられるのでも、「悪ならば長続きしない」などという、世俗の知恵が地上の小悪党の悪事について言うような事をおっしゃっておられるのでもないでしょう。
依って、もしのんちゃんさんが上の青文字の部分は赤文字の部分と <聖書的なつながり> を持つと主張するならば、それは間違いでしょう。それはただ、二つの種類の違うものを、根拠なく、必然性なく、不適切に、そして気ままに「くっつけた」というだけでしょう。
青文字の部分はそれ自体として正しいか?
<聖書的なつながり> 云々は別にして、青文字の部分はそれ自体として正しいでしょうか?
「悪であれば長続きしない」—– これは正しいでしょうか?
悪はこの地上において必ず「長続きしない」でしょうか?
その全てが「短命」ですか?
ニューエイジ・ムーブメント、フリーメイソン、その他諸々の「反キリスト的」な潮流は、既に何十年も、何百年も、あるいは事によると千何百年もの間、続いているのではないでしょうか?
のんちゃんさん、悪の継続に関する真の解答はこうでしょう。
この地上において、「小悪党の悪事」は確かに長続きしないことが多いが、よく出来た(誉めたくはないが)「大悪党の悪事」は、残念ながら、けっこう長続きする。
だから、悪魔の罠であるかも知れぬものを前にしてのあなたの「悪であれば長続きしない」という宣言は、残念ながら非常に「甘い」ものであると言わなければなりません。
その喩え話の標準的な読み方
イエズス様のそのあたりの喩え話の、どこと言って特に勝れたところのない標準的な読み方は、おそらく次のようになると思います。
木と実の喩え話
「木」は「心」を意味し、「実」は「行ない」を意味するでしょう。
倉の喩え話
マタイ12章とルカ6章において(聖書箇所)、イエズス様は「木と実の喩え話」と「倉の喩え話」を続けてお話しになっています。両者は関係が深いと見るべきでしょう。
「倉の喩え話」における「倉」は「心」のことで、「倉から出るもの」は「言葉」です。
外面的な現われから内面にあるものを判別しなさい
これら両方の喩え話で、イエズス様は要するに「内面的なもの(心)を、その善し悪しを、外に現われ出たもの(行ないや言動)で判別しなさい」とおっしゃっておられます。
特に「時間」と絡む話ではない
外面的な現われ(言葉や行ない)から内面的なものを「判別」しなさい、「見抜き」なさいということですから、特に「時間」と絡む話ではありません。つまり必ずしも「将来どんな実をつけるか」を見ようとするものではありません。相手の言葉なり行動なりの “質” を見てその内面を(特に “虚偽” を)見抜きなさいということですから、実際には多少時間がかかることもあるが、また即座に見抜けることもあるのですから、本質的に時間と関係した話ではありません。(実際、マタイ12章では、イエズス様はその時の御自身にとっての「現在」に存在していた偽善者達のことを「まむし族の人間達」とお呼びになりながら、その喩え話をなさっています。)
以上が、その喩え話の(あるいは「倉の喩え話」を含めればそれらの喩え話の)標準的な読み方だと思います。
イエズス様は「木が倒れるのを見てから初めてその木が悪い木だったのだと知りなさい」などという間の抜けたような事はおっしゃっておられないし、ましてそのような判断法が「最善」などとはますます言っておられません。
のんちゃんさん、そんな構えでは我々は “間に合わん” のです。
もう少し鋭くなければ。
悪魔の小さな尻尾を目ざとく見つけるようでなければ。
偉そうに御免なさい。
正しい土台のない警句は人を迷妄に導く
のんちゃんさんはその記事を次の言葉で締めくくっています。
しかし、これだけは言える。豊かな実をつけてから、その実を食そうとも、その時には遅い場合もある。
勿論、のんちゃんさんに言われるまでもなく、私達は私達のキリスト信仰それ自体の中に、その種の警句を持つのです。
マタイ 25:1-13
天の国は、各自のともしびを持って花婿を迎えに出る十人の乙女にたとえてよい。そのうちの五人は愚か者で、五人は賢い。愚か者はともしびを持ったが油を持たず、賢いほうはともしびと一緒に器に入れた油も持っていた。花婿が遅かったので、一同は居眠りをし、やがて眠りこんでしまった。夜半に、〈さあ、花婿だ。出迎えよ〉と声がかかった。乙女たちはみな起きて、ともしびをつけたが、愚かなほうは賢いほうに、〈油を分けてください。火が消えかかっていますので〉と言った。賢いほうは、〈私たちとあなたたちとのためには、おそらく足りません。商人のところへ行って買っていらっしゃい〉と答えた。彼女たちの買いに行っている間に花婿が来たので、用意していた乙女たちは一緒に宴席に入り、そして戸は閉ざされた。やがて、ほかの乙女たちは帰ってきて、〈主よ、主よ、どうぞ開けてください〉と言ったけれど、〈まことに私は言う。私はおまえたちを知らぬ〉と答えられた。警戒せよ、あなたたちはその日その時を知らない。
しかし、私は「その種の」と言いましたが、両者は一見似ているが、実は「似て非なるもの」です。心理動機において違います。
一方は、心理動機も何も、天主様から来たものですが、他方は、悪霊があなたの中に吹き込んだ「人の心に強迫する虚構ワールド」から来ています。つまり強迫観念です。すなわち、あなたの有力視する一つの預言(Maria Divine Mercy の預言)の地位が低められた後で「しかし、これだけは言える」と頑張っているのは、いわばあなたの中の悪霊です。(いわば、です。もう少し神経を使って言えば「悪霊に影響されたあなたの精神」です。)
あなたが「豊かな実」という言葉を使いながらするその警句の根底には、「近い将来、一般の小教区教会からは霊益を得ることが不可能に、あるいは少なくとも非常に困難になる。そして、或る特定のグループに天主様の御恵みが濃く下る」という展望があります。
私もまた、教会に関して全く安心している者ではありません。しかし、私達はここでも「擬似」に気をつけなければなりません。一見 “聖書的” なもの、一見 “黙示録的” なもの、そのような “見かけ” を持った展望に気をつけなければなりません。悪魔は私達の正しい危機感さえ利用するからです。
悪魔が私達の前に差し出す「擬似餌」に騙されないためには、物事の「順序」というものをきっちりと守ることが必要です。警句ということで言えば、警句という警句は全て「正しい信仰」という土台(前提)の上に乗っていなければなりません。その上に乗って初めてそれらは有益性を持ちます。
反対に、その土台に乗らずして叫ばれたそれは、虚しいか、人を迷妄の世界に引きずり込むだけです。狂信者だって、妄想家だって、その種の警句を叫び得ます。似て非なる警句を。しかし、あくまでも、どこまでも、「似て非なる」では駄目なのです。
「豊かな実」などと言っても、「正しい信仰」のない場所には「豊かな実」などなる筈もないのですから、先ず「正しい信仰」というものを間違いなく知らなければなりません。それが物事の「順序」です。絶対必須の。
もしその「順序」を踏むことなく、そうすることをおろそかにしながら、アレコレの警句・警告に乗るならば、あなたは悪魔の恰好の餌食となります。その時、悪魔にとって、あなたに「毒入りの実」を食べさせることは、いとも簡単なことになります。
そして、どういうことになりますか?
悪魔によって「毒入りの実」を食べさせられ続けた時。
どういうことになりますか?
私は答えを、のんちゃんさん、あなたの口振りを真似て言いましょう。
しかし、これだけは言える。毒入りの実を食べるにだけ食べてから、その毒を吐き出そうにも、その時には遅い場合もある。
これはいわば、のんちゃんさんの警句を反転させた警句です。のんちゃんさん、あなたは一見抜かりなく警戒しているようでありながら、実は非常に油断の多い人です。何故なら、この「反対の警句」を十分には意識していないようですから。
悪魔によって「毒入りの実」を食べさせられ、その毒が霊魂中に回ってしまったら、あなたは右も左も分からなくなります。「判断力」をすっかり失います。妄想の沼の中に深く沈みます。その時、自分ではどうにもならなくなります。
「祈れば神が必ずお助け下さるだろう」と簡単に言えるものではありません。
何故なら、第一に、神の方を向こうにも、神がおられる「方向・方角」が分からなくなるからです。そして、そこに悪魔・悪霊が更につけ込むからです。彼らはあなたが「神」の方を振り向いたつもりの時に、あなたの前に神の装いで現われます。そして、既に毒をたっぷり呑んでしまっているあなたには、それが見破れません。
そして何故なら、第二に、(「祈れば神が必ずお助け下さるだろう」と簡単に言えるものではないというのは)あなたがそのような状態に陥った時、それはあなたが「正しい信仰」というものを確実に知ろうとすることを怠った結果であるから、つまり「信徳に背く行ない」をした結果であるから、天主様はかなりの程度、あなた自身に責任を取らせるだろうからです。
公教要理 341 どのようなことが信徳に背く行でありますか。
教理を学ぶのを怠り、信ずべきことをわざと疑い、信仰を失わせる危険に近づき、異説を唱え、公教を棄てることなどが、信徳に背く行であります。
公教要理 5 イエズス・キリストがお教えになった教理を学ばなければなりませんか。
イエズス・キリストのお教えになった教理を学ばなければなりません。怠れば重大な罪を犯します。
ですから、のんちゃんさん、あなたは Maria Divine Mercy の預言なら Maria Divine Mercy の預言の(また他の預言の)本当に公教会の教理と一致しているかどうかを真剣に検討することを怠ることはできません。
それを怠った時、天主様がかなりの程度あなた自身に責任を取らせても、それを「冷たい」と言うことはできません。それが「背反」である限り、「罪」である限り、結果があなたに及ぶことは基本的に当然のことですから( “撒いた種は自分で刈り取る” )。
実例
私はいたずらに脅かしているのではありません。のんちゃんさん、あなたはそのような抜き差しならぬ状態に陥ってしまった人々のことを、その実例を、既に知っている筈ではありませんか。
ああ、しかし同時に、あなたにはそれがよく分からないようです・・・
次のページで、特にその後半で、読者は、彼らばかりでなくのんちゃんさん自身までもが、既に半ば以上そのような道に、そのような「判断力の失われた道」の中に踏み込んでいることを知るでしょう。
次のページで、私は、のんちゃんさん自身の言葉を引きながら、すなわち「事実に即して客観的に」、のんちゃんさんがどのような人であるのか、どのような <状態> にある人なのかを、端的に示そうとします。
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