「田舎へ移ろう」の “のんちゃん” さんについて 2

前回からの続き)
のんちゃんさん、私は、あなたのブログは信仰の常識を守っているカトリック信者にとってはさほど危険性はないだろうと思っています。しかし、それでも、人々の中には必ず一定の割合で不注意な人というのが居るものです。それで、私はここで、人々に向けて、あなたの中にある幾つかの要素を強調表示することにします。
強調表示はしますが、それは上の理由によるのであって、あなたのことを馬鹿にしたり嘲笑したりするためではありません。
1. のんちゃんさんはリトル・ペブルに対して一定の思いを持っている人である
あなたはリトル・ペブルに対する自分の立場を次のように書いています。
2012年1月
時として、リトル・ペブルに関することを載せるため、その団体の一員として見られているが、私は、リトル・ペブルの団体、聖シャーベル修道会とは何の関係もない。誰であれ、いい事を言えば載せるし、悪いことを言えば載せないだけなのだ。
「何の関係もない」とは、「物理的には」関係がない、「所属」していたり「交流」していたりしない、ということでしょう。
しかしあなたは、もしそれがリトル・ペブルの主張であっても、あるいは何らかのリトル・ペブル “関係” のグループの主張であっても、もしあなたが「いい事」と感じるならば、引用も転載もするでしょう。実際、そうしています。
つまり、霊的・精神的な意味では「何の関係もない」とは決して言えないでしょう。それは以下のようなあなたの諸発言からも明らかです。
あなたは「リトル・ペブル = 真実の人」である可能性を排除していない
2010年1月
リトル・ペブルがつくった修道会が、日本には二つあります。その一つが聖シャーベル修道会です。(…)〔それは〕何年か前にすでにリトル・ペブル側より破門されて〔います〕。(…)
もう一つは、ド田舎でひっそりと活動しております。今後、世間に〔そのグループの〕名が出てくるのか否かは、リトル・ペブルが真実の人か否かによります。
あなたは「リトル・ペブル = 次期教皇」である可能性を排除していない?
2011年9月
リトル・ペブルは、現在、刑務所の中。これ以上でもこれ以下でもない。(…)再度くり返せば、彼は刑務所で静かに暮らしている。それ以上でもそれ以下でもない。騒ぐこともなかろうに。彼が、次期教皇であると主張するなら、その真偽の程は時間が立てばわかろうというものだ。
あなたは「リトル・ペブルには “大どんでん返し” が用意されている」と言う
2009年7月
リトル・ペブルの評判は、すこぶる悪い。軽蔑の極みである。しかし、彼には大どんでん返しが用意されている。
それは、日本でも同和と呼ばれている人たちが、実は、ユダヤの失われた10部族の末裔であり、しかも、その中の神官の高貴な血筋を引く人たちであることがわかる時、大どんでん返しが日本でも起きるのと同じようなものだ。
やたら人を軽蔑すべきものではない。あとで恥をかくことになる。気をつけよう。
のんちゃんさん、あなたも本当は分かっていると思うけれど、一応言えば、リトル・ペブルの問題は彼が軽蔑されるかどうかの問題ではありません。単に彼が信仰的に正しいかどうかの問題です。人を軽蔑するのは善くないことだし(「軽蔑」が全く「侮蔑」や「嘲笑」を意味する場合)、リトル・ペブルを軽蔑する人が多いのも事実だけれど、それらのことはリトル・ペブルという人が正しいかどうかという問題と接触しません。
やたらと人を軽蔑することは、対象が誰であろうと常に悪いことですが、しかし、「あとで恥をかくことになる」とはどういう意味ですか?
「あとで」とは、「リトル・ペブルが次期教皇になった時」、あるいはとにかく「リトル・ペブルの “潔白” が明らかになった時」ですか?
さて、私の観察するところでは、あなたはいつも言葉の端々に、自分が「預言」というものに関してそれなりに「慎重」で、「断定」という軽率行為を避けながら、常に「慎重な観察」と「慎重な判断保留」を続けているということを滲ませるのですが、実のところ、あなたはリトル・ペブルに関して(また勿論、あなたが取り上げる他の “有力預言” に関しても)<信じたい気持ち> が濃厚なのです。
特に、直ぐ上の2009年7月の発言などを見れば、あなたはほとんど「リトル・ペブル信者」であると言ってもいいくらいのものです。いわば「ほぼリトル・ペブル信者」でしょうか。
しかし、事はそれでは済まないようです。
2. のんちゃんさんはあの「リトル・ペブル同宿会」をさえ完全否定していない人である
あなたはあの「リトル・ペブル同宿会」からの情報(?)をも重要視する
2010年1月
ジャン・マリー神父の、紀宮清子さまが、リトル・ペブルさんと一致している幻視者だということの証言を掲載します。
ジャン・マリー神父の証言
「1992年8月に、紀宮清子様は、カナダのケベック州の『汚れなきみ心とルイ・マリー・ド・モンフォール修道会』に日本から国際電話をかけ、ご自身が聖母マリアのご出現を受けている幻視者であることを明かしました。(…)
のんちゃんさん、あなたはこの文章で、ジャン・マリー杉浦洋氏のことを「神父」と呼んでいます。しかし、彼はカトリック教会から正式に叙階された人でしょうか参照。そして、あなたは彼の奇行を知らないのでしょうか。
また、リトル・ペブルのことも「さん」付けで呼んでいます。確かに、どんな人にも基本的な敬意を払うのはよいことです。しかし、あなたの場合、それは単なる基本的な敬意を超えているでしょう。
そして内容ですが、あなたが引用・転載している「ジャン・マリー神父の証言」の出どころは、そのジャン・マリー杉浦洋氏が責任者である「リトル・ペブル同宿会」のいずれかのウェブサイトでしょう。例えば、彼らの公式サイトが次の表題のもとで公開している記事の中に、「ジャン・マリー杉浦洋神父の証言」として、同じものが載っています。
全世界の報道機関への公式声明(1) 2009年11月30日 New !!
同宿会の表示に間違いがなければ、その「証言」なるものは2009年11月30日に公開されたものです。そして、のんちゃんさんがそれを引用・転載したのは、のんちゃんさんの記事のURLから判断すれば(あなたの個々の記事には何故か投稿日が表示されていませんから)、翌2010年の1月のようです。
ところで、先程も言いましたが、「リトル・ペブル同宿会」と云えば、ある時ジャン・マリー杉浦洋氏とその女性信者達が常識では考えられない奇行を為したことで知られています。
その出来事は、Wikipedia の記述(出典・脚注)によれば「週刊ポスト」と「フラッシュ」によって、ZAKZAKという情報サイトの伝えるところによれば「夕刊フジ」によって報道されたそうです。ZAKZAKの元の記事は既に削除されていますが、写しが阿修羅にあります。また、Wayback Machine でも、今のところ元記事の復元が読めます。
しかし、本当はそんな案内は不要でさえあります。何故なら、同宿会自身、それを隠していないからです。隠していないどころか、今も公式サイトのトップページに生々しい写真と共に掲載しています参照。更に、同じトップページによれば、彼らはその奇行の模様を収めたDVDさえ作ったようです。
その奇行の意味については、やはり同じトップページで杉浦氏自身が説明しています。私は彼のことも誰のことも裁きたくありません。しかし「判断」はしなければなりません。—— 彼は「正気」ですか? —— 答えに迷うような問いではありません。
さて、そして、その出来事、その奇行があったのはいつですか?
同宿会の公式サイトでも、ZAKZAKの記事でも、Wikipedia の記述でも、2007年となっています。(同宿会のトップページによれば、その奇行は少なくとも2007年中に複数回行なわれたことが分かります。)
ということは?
ということは、
のんちゃんさんは、そのグループの2007年におけるその奇行、恐ろしい妄想のかたまりから生まれた、そしてもちろん当然「憑霊」も伴っているだろうその狂気の振る舞いを知りながら、その同じグループが2009年に公開した情報(?)を <有力情報> として取り上げた、ということです。
私は上の文字を大きく表示しました。しかし、この文字の大きさは、あなたのことを裁きたいという心の大きさを表わしていません。私はあなたのことを裁きません。この文字の大きさは、私の驚きの大きさを表わしています。私は躊躇なく叫びます。
驚くべきこと! のんちゃんさんの何という「判断力」!
のんちゃんさんの信仰世界
上の画像: 杉浦氏の奇行とあなたの記事の間に、私は矢印を置きました。
つまり、あなたの信仰世界はこのような「流れ」を含みます。
若しくは、このような「結び付き」を。
勿論これは、あなたが杉浦氏のグループに物理的に所属しているとか、その奇行に直接関与しているとかいった意味ではありません。
しかし、そうであっても、あなたは精神的・霊的にはそのグループと十分「接触」しているのです。そう言わなければなりません。
これは別に大ゲサな受け取り方でも意地悪な取り方でもなく、自然な受け取り方であるに過ぎません。
のんちゃんさん、あなたは彼らのことを「妄想の世界に住む可哀想な人達」と思わないのでしょうか。彼らのその酷い奇行 —— それは彼らによれば、天国からの指示に従い、人類の何かに関する償いとして、彼らが人類を代表して行なった事らしいですが —— あなたはこれを彼らの妄想から生まれたものだと思わないのでしょうか。
もしあなたがそう思っていたならば、「紀宮清子さまとリトル・ペブルさん」の話を聞いた時も、あなたは当然まず真っ先に「それも彼らの妄想から出たものではないか」と疑っていたことでしょう。しかし、私の見るところ、あなたにそれを疑ったフシはありません。そこが問題です。
しかしまた、ある意味、そうであって当然です。何故なら、彼らのあれほどの奇行(のんちゃんさん、あなたはその奇行の「規模・程度」をお分かりでない)を知りながら、そこに彼らの妄想性を見ない人が、彼らの(あるいは単数で言うべきでしょうか、彼、杉浦氏の)その話の妄想性を疑う筈もないからです。(つまり、「ドデカイもの」に気づかない人が、それより小さなもの —— 本当は「小さな」などとは言いたくありませんが —— に気づく筈がありません。)
そうです、のんちゃんさん、あなたは彼らのあれほどの奇行の中に彼らの妄想性を見ないでしょう。あるいは、少しぐらいは奇妙さを感じているかも知れません。しかしその場合も、結局あなたはハッキリとした判断には至らず、いつもの「判断保留」に落ち着くでしょう。
しかし、常識的判断力のある人なら、彼らのその奇行は彼らの妄想から出たものだと知っているし、それ故、彼らから出た如何なる言葉も情報も基本的に信じません。
私は「常識」の世界が完全だとは思いません。
しかし、この場合は、そのような「常識的判断」で十分です。
世間に「常識」があると同様、
キリスト教世界にもそれとしての「常識」があります。
その中の一つは、
イエズス様は「私の内に留まれ」と仰った、ということです。 ヨハネ 15
ところで、のんちゃんさん、
杉浦氏は「イエズス様の内に留まって」いますか?
またもう一つは、
イエズス様は「善い木は悪い実を結ばない」とお教えになった、ということです。 前頁の聖句参照
ところで、のんちゃんさん、
杉浦氏は「善い実」を結んでいますか?
「分からない」?
「分からない」と言うのですか、のんちゃんさん。
これが <善い実> なのか <悪い実> なのか、分からない?
分からないから「判断保留」している?
そして、「やがて時が全てを教えてくれるだろう」?
いいえ、のんちゃんさん、誰もが知っていることです。
彼らが彼らの公式サイトのトップページに今も飾っているその奇行は「悪い実」なのです。(「悪い」と言うより「病的な」と言った方がピッタリ来ます。しかし「病的な実」も結局は「悪い実」です。)
そしてイエズス様は「善い木は悪い実を結ばない。悪い実を結ぶのは悪い木である。そのように判断しなさい」とお教えになったのです。
依って、杉浦氏やその信者達は —— 私達は彼らを裁かず、しかし正しく “判断” して参照、神に彼らへの御憐れみを願いつつも、こう言わなければなりません ——「悪い木」あるいは「悪い枝」なのです。
誰もが知っていることです、のんちゃんさん。
あなたはまだ、次のように言うかも知れません。
「私は、それが誰であれ、いい事を言えば載せるし、悪いことを言えば載せないだけなのだ参照
私は彼ら(リトル・ペブル同宿会)の全体を扱っていない。彼らの部分を扱っただけである。つまり、私は彼らから出たただ一片の情報を取り上げただけである。私は彼らの他の要素、例えばあなたの言う彼らのその行ないについては何も言っていない。それにはタッチしていないのだ。
そして、例えば、共産主義者が言った事でも一片の情報として真実である場合がある。私がその情報を取り上げたとしても、私が共産主義を肯定したことになるわけではない。
私がリトル・ペブル同宿会からの一片の情報を取り上げたことも、それと同様である。それによって、私が彼らの全体や他の要素を肯定したことにはならない。
だから、私が彼らのその情報を取り上げたことには何の問題もない。」
私は、あなたがそのように言う可能性が十分にあると思っています。
しかし、あなたがそのように言うならば、あなたはまだ何も分かっていない、と申し上げます。
「共産主義者が言った事でも一片の情報として真実である場合がある」というのは本当です。しかし、それだって、あくまでその共産主義者が人間の基本機能において「正常」の範囲内にある場合です。
つまり、あなたは「言葉」や「情報」を扱うだけではいけない。
「人間」というものを理解しなければならない。
私の意見陳述も、私が勝手に展開するあなたとの仮想議論も、そろそろおしまいにしますが、私が結局何を言いたかったかと云えば、既に遠慮なく言ってきたので遠慮なく言いますが、「のんちゃんさん、あなたの判断力はものすごくおかしい」ということです。
あなたは Maria Divine Mercy の預言のあれらの言葉達参照を「悪い実」と判断せず、杉浦氏のあれほどの奇行を「悪い実」と判断しないにも拘らず(「判断保留」も「判断しない」ということの一つです)、それでいて御自分が「豊かな実」についての何らかの警鐘を人々に向かって鳴らすことができると思うほど、それほど御自分について、また「識別」ということについて分かっておられないのです。
また、「検証」。
あなたは御自分の記事の表題に「検証」という言葉を使っていますが、
私は、はっきり言って、あなたは「検証」のできる人ではないと思います。
以上のような指摘を受けるとあなたのプライドが傷つくでしょうが、
「その通りかも」ぐらいのことは思って頂きたいと思います。
私はあなたを軽蔑しません。
しかし私は、あなたはいつか御自分に気づかねばならない、と思います。
以上、大変偉そうに済みませんでした。
が、とにかく、あなたに向けて力一杯、ストレートに申し上げました。
あなた自身もよく考えてみて下さい。
天主様があなたを助けて下さいますように。
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